My Choice/2021年印象に残った本
2021年は引き続きCOVID-19に明け暮れた年だったけれど、自分の周囲は幸いなことに落ち着いていて、本もいつものように読むことができた。数えてみたところ読んだ本は全部で129冊。2020年は131冊、2019年は121冊だったから、ひとまずは順調といったところか。小さい字が見にくくなってはきたものの、眼鏡を外せば支障なく読めるのでまだまだ頑張りたい。
さてそれでは毎年恒例の「印象に残った本」を挙げてみたい。なお「新刊」には今年文庫化されたものを含み、「既刊」には新刊で買ったまま積んであったものを含んでいるのであしからず。また文章は以前アップした月の記事の抜粋して一部修正したものです。
<新刊部門> ―今年出版された本―
『十二章のイタリア』内田洋子 創元ライブラリ
著者は通信社を主宰し、四十年余りに亘って日本とイタリアの掛橋となっているジャーナリスト。イタリア語学科の学生だった頃の思い出から、卒業後に単身飛び込んだイタリアの暮らし、そしてこれまでに出会った多くの人々の記憶が交差して熟成し、まさに馥郁たる香りが文章の間からたちのぼってくるようなエッセイとなっている。昔、林望『イギリスはおいしい』や玉村豊男『パリ 旅の雑学ノート』、須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』などを初めて読んだときのことを思い出した。
出版に関わる仕事に携わっているだけに、本に関わる話題が多いのはもちろんだが、本書の魅力はそればかりではない。ひとことで言えば、ここに書かれているのはイタリアの「文化」だ。文化とは美術や建築物のことばかりではない。また、テレビの旅行番組や雑誌の特集記事に載っている流行りの音楽やファッションのことでもない。それは「日々の営み」であると思う。仮に、栄養補給の為の食事や、体力維持のための睡眠や、あるいは仕事のための時間以外のすべてのものが「文化」だとしよう。本書を読めば、筆者が友人たちと過ごした食事や、高速道路を降りて尋ねた村で過ごした時間、ベネツィアのバールで出逢った人々との会話も、すべてがイタリアの「文化」そのものと感じることができる筈だ。それにしても開放的で友好的なイタリアの人たちにとって、食事を通じた交流がいかに大切なことか。開高健ではないが、まさしく「心に通じる道は胃を通る」のである。
どのページを開いても驚いたり哀しんだり笑ったり、心豊かな読書体験を味わえるのだが、とりわけ本書の良さをよくあらわしているのは、ウンベルト・エーコとの邂逅を綴った第十一章「テゼオの船」ではないかと思う。エーコが述べたという次の言葉が象徴的だ。
「本を読まない人は、七十才になればひとつの人生だけを生きたことにのる。その人の人生だ。しかし本を読む人は、五千年を生きる。本を読むと言うことは、不滅の過去と出会うことだからだ」
以前、どこかで聞いた「人がひとり亡くなるということは、図書館ひとつ焼け落ちたのと同じである」という言葉を思い出した。差し詰めイタリアに暮らす人々は、一人ひとりが数千年に亘るヨーロッパ文化源流の歴史を持った図書館であるといえるかも知れない。
『山の人魚と虚ろの王』山尾悠子 国書刊行会
若い妻との新婚旅行へと出た「私」。列車による数日間の二人の旅は、〈夜の宮殿〉への訪問を経て、〈山の人魚団〉なる舞踏集団を主宰していた伯母の葬儀へと続いてゆく……。
断片的な記憶の連なりは暗示に満ちたエピソードに彩られ、読む者もまた「私」と同じように、夢か現実かも判然としないイメージの世界を彷徨うことになる。絵画でいえばレメディオス・バロ、小説で言えばグスタフ・マイリンク『ゴーレム』やレオノーラ・キャリントン『耳らっぱ』などを連想させる。(或いは外函の装丁に使われたルドンのリトグラフ。)いずれ物語の流れというよりは、イマジネーションのひらめきを愉しむ作品かと思う。個人的には著者は『飛ぶ孔雀』のあたりから、さらに凄みを増したように感じている。
曖昧さはなく明晰に細部まで書き込まれているにも関わらず、全体を見るとどことなく歪で不安定な構成。見たこともない言葉の繋がりに異化作用を覚えつつ、それでいて懐かしさも感じさせる。物語の背後にしっかりとした虚構の存在を思わせる作風は、幻想からシュールリアリズムの世界へともう一歩踏み込んだと言えるのではないかと、そんな気もする。何度も読み返して味わいたくなる作品だ。
『旱魃世界』J・G・バラード 創元SF文庫
山田和子訳。バラード初期の傑作〈破滅三部作〉の第二作目として1964年にアメリカで出版された『燃える世界』を、1965年にイギリスで出版するにあたり著者自ら全面的に書き直した作品。これまで邦訳されていたのはアメリカ版であり、イギリス版は今回が初お目見えとなる。
帯やあらすじ紹介には「完全版」と謳われているが、自分の印象を一言でいうと"デジタルリマスター版"という感じ。アナログ録音の楽曲がデジタルリマスターで隅々までくっきりした音になってよみがえるように、本書では著者の示そうとするビジョンは、『燃える世界』より細部まで鮮明に、くっきりとピントが合っている。作品としての評価は、もとより一人一人の読者に委ねられるものであるけれども、少なくとも自分にはアメリカ版とはまったく別の(はるかに優れた)作品であると思えた。
ではバラードが本書で示そうとしたビジョンとは何か。それは解説で牧眞司氏が書かれているように、当初からバラードが一貫して追求し続けた「内宇宙(イナー・スペース)」であり、中期の〈テクノロジー三部作〉で明確になっていった「景観(ランドスケープ)」というもの。初期三部作ではそれが破滅的な超自然という極限状態であったのに対して、中期三部作では人工的に作り出された景観(テクノロジカル・ランドスケープ)であるという違いはあるが、景観と精神を一致させたおかしな人間が狂言回しとなって主人公が地獄巡りをする構図は同じ。精神と一体化した景観はときに攻撃的であり拒絶的であるが、ときに穏やかであり受容をも示す。
精神世界と外宇宙が出会う場所、時間と空間と精神が溶け合う場所である内宇宙(本書では「内なる景観(イナー・ランドスケープ)」という表現がされている)に著者が極めて自覚的であるのは、次の言葉からも分かると思う。
「失われた時間の瀬に干上がったイメージだけが残る、遠い宇宙の亡霊たち」「そこでは、未来を構成する要素が、静物画のオブジェクトのように、形も関係性もなく、彼を取り囲んでいるだけだった」
正直なことを言うと『燃える世界』は初期三部作の中では一番評価が低かったのだが、本書を読んで印象が変わった。中期三部作を代表する作品がが『クラッシュ』であるように、初期三部作を代表する作品は本書『旱魃世界』でさえあると思う。
『サラ金の歴史』小島庸平 中公新書
副題は「消費者金融と日本社会」。最初は興味本位と怖いもの見たさで手に取ったのだけれど、読んでみたところ極めて優れた消費経済史になっていた。しかもこれまで聞いたこともないような話が丹念に拾い集められていておもしろい。ネットで高評価なのも頷ける。終章に詳しく書いてあるが、「サラ金」をダーティーな印象で感情的に糾弾するのでなく、敢えて一歩引いたところから眺めることで、マクロな経済環境の中で日本の金融システムが作り出した特殊な業界の姿を客観的に捉えることに成功している。(もちろん、その非人道的な取立ての様子なども、第5章にしっかりと出てくるが、主眼は「なぜそのようなことになったのか」を解き明かすことにある。)
なぜサラ金は借金の返済能力が低く債務不履行のリスクが高い人に積極的に融資を行なったのか。純粋な営利企業であるはずのサラ金が、行政によるセイフティネットの代わりに貧困層への金融を行うという「奇妙な事態」がなぜ起こったのか、そういった疑問が本書を読むことで氷解した。
駅前で配られた大量のティッシュや親しみやすいテレビCMと、一方で「サラ金地獄」による膨大な数の自己破産や自殺者を生み出したことは、ひとつの同じ企業による事業活動の結果なのだ。(そしてなぜそうなったかは全て説明されている。)
本書によれば、個人向けの金融は、かつて「素人高利貸」と呼ばれたものにその起源があるとのこと。2010年に完全施行された改正貸金業規制法によって上限金利が大幅に引き下げられた結果、現在では最大手の武富士が倒産し、アコムとプロミスが銀行の子会社となってしまっており、サラ金という業界はほぼ消滅したように見える。しかし彼らが考え出した数々の「革命的な」金融技術は、形を変えていまでも個人向け融資の世界で受け継がれているのだそうだ。テーマ自体は決して好みのものでは無いのだけれど、非常に知的興奮を誘う良書だった。
『夕暮れの草の冠』(柏書房)
西崎憲氏の編纂によるアンソロジー〈kaze no tanbun〉の最終巻となる第三巻。とても美しい工芸品のような書物だ。創作、随筆などの区別なく、ただ十八の「短文」として収録された文章が、その配列や装丁の妙も合わさったことで、書籍の形をしたひとつの完成体として存在している。もちろん全体としては「創作」の比率が高いのだけれど、それもまた幻想小説やSFや私小説といったジャンルの垣根など無く、ただ、ある一人の作家による「創作」としてそれぞれが屹立しているように思える。
人を襲って食べる恐るべき何物かは、ライオンという名が付けられた瞬間に恐ろしくはあるがただの獣に姿を変えた。ここに収録されている数々の文章は、ライオンと呼ばれるようになる前の「何か」ではないだろうか。もしくは、あるひとつのジャンルとして理解されることを拒絶して、「◯◯ではない」という言葉を列ねることでしか表現し得ない、まるで「否定神学」にも似た「否定小説」とでも呼ぶべきもの。読む者の胆力を試される本なのかも知れない。
このような作品集からどこか一部を切りだすのは野暮かも知れないが、特に個人的に気に入ったものを挙げるとすれば、小山田浩子「コンサートホール」、松永美穂「たうぽ」、日和聡子「白いくつ」、西崎憲「病院島の黒犬。その後」、皆川博子「夕の光」あたりだろうか。いずれも、いわく言い難い分類不能の文章として、空前絶後の試みを締めくくるに相応しいものだった。
『エルサレム』ゴンサロ・M・タヴァレス 河出書房新社
木下眞穂訳。世界中で高い評価を受けるポルトガルの作家の代表作。著者が「悪のメカニズムの解析を試みた」という「王国」四部作の第三作目にあたる作品で、全篇が死と孤独、痛みと暴力に満ち溢れている。そして意識するしないには関係なく、登場する誰もが世界の不合理に苛まれつつ生きながらえている。
題名は旧約聖書の詩篇の一節、迫害を受けて漂泊を続けるユダヤの民が魂の故郷を思って告げたとされる、「エルサレムよ、もしも、わたしがあなたを忘れるなら、わたしの右手はなえるがよい」という言葉から取られているとのこと。ゲオルク・ローゼンベルク精神病院を核とした数奇な運命に翻弄されるミリアやヒンネルク、エルンスト、カース、テオドール達。彼らの届かぬ思いと剥き出しの暴力がぶつかり合うとき、悪とともにひとつの奇跡が現れることになる……。
これはすごい作家を読んでしまった。日本で言えば石川淳に匹敵する強さを持っているかも。言葉では直接指し示せないものを感じさせるのが文学の力だとすれば、本書はまさしく文学そのものという気がする。(それもとびきり残酷で美しい光景の。)ぜひともタヴァレスの他の作品も出版されんことを祈る。
ところで余談だが、本書の訳者である木下眞穂氏はペイショット『ガルヴェイアスの犬』で日本翻訳大賞を受賞された方だった。迂闊にも読み終わってから気が付いたのだが、道理で作品に間違いがないわけだ。あれもとんでもない作品だったものなあ。ポルトガル文学恐るべし。
『小鳥たち』アナ・マリア・マトゥー 東宣出版
宇野和美訳。 2010年にセルバンテス賞を受賞作した、二十世紀スペインを代表する作家のひとりということだが、恥ずかしながらこれまでまったく知らなかった。それもそのはず、これまで邦訳されたのは児童文学ニ作品を除くと単行本一冊しかないらしい。「リリカルで詩的なリアリズムに空想と幻想が美しく混じりあう」とのふれこみに惹かれて読んでみたが、期待にたがわず素晴らしい本だった。
本書は副題に「マトゥーテ短篇選」とあるように、彼女の著作のいくつかから、全部で二十一篇の掌篇を選んだ日本オリジナルの作品集となっている。〈はじめて出逢う世界のおはなし〉シリーズの一冊なのだけれど、正直いって子どもの頃に本書を読んだら、ある種のトラウマになったかも知れない。収録されているのは、そんな風につらくて哀しくて美しくて、そして心に沁みる物語ばかり。誤解を恐れずに言えば、イサク・ディネーセンの作品に近い香りがした。本邦では小川未明の童話に通じる残酷さを持つ。
どれも一読の価値があると思うが、そのなかでも特に気に入ったのを選ぶとすれば「小鳥たち」「メルキオール王」「島」「枯れ枝」「店の者たち」「月」あたりだろうか。とりわけ「島」や「月」で描かれる幻想の美しさは格別だ。
<既刊部門> ―古本・絶版とりまぜて今年自分が読んだ本―
『観念結晶大系』高原英理 書肆侃侃房
読み終えた瞬間、心に浮かんだのは「懐かしい」という言葉だった。50年ほど前ならまさしく「思弁小説(スペキュレイティブ・フィクション)」として読まれたかも知れない。山野浩一の作品のいい部分だけを集めたような観念の純粋さが美しい。第一部「物質の時代」は現代が舞台。どことも知れない世界の絵を描き続ける少年、シュルレアリスムの画家、ブルックナーの音楽に魅せられるピアニストらの消息と、死に彩られた鉱物的で硬く冷たい幻想は、澁澤龍彦『犬狼都市』や川又千秋『幻詩狩り』を連想するような読み心地だ。(もしかすると中原中也「一つのメルヘン」にも近いかも知れない。)鉱物の夢をめぐる、時代も国も超えた人々の運命から、やがて観念の世界がその輪郭を顕してくる過程は実にスリリングだ。
第二部「精神の時代」は打って変わって、『ヴンダーヴェルト』なる幻視の書が紹介される。これは第一部でその存在が示されたものだが、これなどまさに川又千秋『幻詩狩り』に登場する謎の詩篇「時の黄金」を思わせる。
内容はといえば、たむらしげるのイラストのような透明感がありつつ漆黒の闇を持つ、美しくも悲しい世界が描かれる。このあたりは宮澤賢治の詩や童話、ますむらひろしの漫画作品を思い出したりしながら、徐々に加速していく物語から最後まで目が離せなかった。を、愉しく読むことができた。
そして第三部「魂の時代」では再び現代世界が舞台に。「石化症」と呼ばれている謎の疾病を通じて、意識と時間に関する考察と、そしてその背後に潜む純粋思念の世界が徐々にその姿を顕してゆく。ラストはバラード『結晶世界』の行き着く先を描いたらこのようになるのではないかと思えるような、詩的想像力に溢れた美しさだった。
人々の想いなどすべて押し流してしまう冷徹さこそが、優れた幻想小説の必須要因であるとするならば、本書は間違いなくその筆頭に上がってくるだろう。そんな充実した読書時間だった。これは傑作。
(追記:澁澤龍彦をモデルにしたと思しき「紫峰朋彦」という著述家には思わず笑ってしまった。みんなアンビバレントな気持ちを抱えながらも、澁澤の影からは逃れられないのだ。
『ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ』キルメン・ウリベ 白水Uブックス
金子奈美訳。(同じ著者の「ムシェ 小さな英雄の物語』では、見事に第二回日本翻訳大賞を受賞されている方。)バスク語で書かれた文学として、スペイン国民小説賞を受賞した作品。著者が自分の家族や知人の生き様について語るモザイクのような断片が、なんとも心地よい。国書刊行会〈新しいマヤの文学〉を読んだ時にも感じたことだけど、話者の数が少ない言語だからといって、その人たちの生み出す文化がメジャーな言語のそれに比べて見劣りするわけではない。むしろ歴史的な背景と密接な関係を持っていたりして、作品として深みが増している気さえする。
本書はスペイン・バスク地方の都市ビルバオから、ニューヨークへと向かう旅のエピソードを縦軸に、そして漁師だった祖父と一族の思い出を辿るエピソードを横軸として綴られている。しかしはっきりしたストーリーは無いに等しく、著者がその時々に感じたことや、教科書には載らない人々の歴史が途中に挟み込まれ、枝分かれしてはまた合流して、さながら森の中を進む小径のようになっている。もっとも自分が知らないだけで、建築家リカルド・バスティダや画家のアウレリオ・アルテタと言った名前は、聞く人が聞けばすぐわかるのかも知れないが。
小説なのかエッセイなのかドキュメンタリーなのかよく分からないうえ、訳者あとがきにもあるように、現実と虚構のあいだをわざと曖昧にしてあるため、次にどこへ連れて行かれるのか予想もつかない。(まあ面白ければそんな区別なんてどうでもいいんだけれど。)それもそのはず、なんと本書は、『ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ』という小説をキルメン・ウリベという作家が書くまでを綴った小説なのだ。入子構造になった物語は万華鏡のように章が変わるたび違った光景を見せてくれるし、所々に差し込まれた詩や歌詞が色を添えてくれる。そして誠実な著者の探索と逍遙に付き合って愉しんでいるうち、やがて見えてくるのは、内戦やその後のフランコ独裁政権に翻弄されたバスクの人々の等身大の姿。そして最終ページを読み終わって本を閉じた時に思ったのは、「個を通じて普遍へと至る道」はまさしく本書においても健在ということだった。細かなエピソードの積み重ねの中に、一瞬の啓示が感じられる時がままあるが、それが何なのかは、おぼろげでよく分からない。しかしそれが日々の暮らしであり、人々の生きた証なのかも知れない。良い物語だと思う。
蛇足だが、20章 「ボストン」には、ハーヴァード大学の自然史博物館にある植物のガラス標本の話が出てくる。およそ50年かけて精密な植物標本を(なんと!)ガラス細工で作り上げたブラシュカ親子についてのエピソードで、知らなかったので検索してみたら本当に凄いものだった。本書にはこういう愉しみ方もある。
『百年と一日』柴崎友香 筑摩書房
27の独立した短い物語に、〈娘の話〉及び〈ファミリーツリー〉という、断続的に続く2つの物語を加え、ぜんぶで29の話が収録されている短文集。例えばひとつ目の物語は「一年一組一番と二組一番は、長雨の夏に渡り廊下のそばの植え込みできのこを発見し、卒業式して二年後に再会したあと、十年経って、二十年経って、まだ会えていない話」と名付けられている。そして内容は、まさにその通りである。
また、こんな物語もある。「二階の窓から土手が眺められた川は台風の影響で増水して決壊しそうになったが、その家ができたころにはあたりには田畑しかなく、もっと昔のには人間も来なかった」―― まさにこの通りだ。
なんだろう、普段読んでいるような、というか、一般的に想像する「物語」のルールとは違う組み立てをされている感じ、とでもいえば良いだろうか。決して詰まらないとか読みにくいということはないが、ただいつもの調子で読んでいると、自分の足元が不意に消えてしまうような感覚を覚える。初めのうちは、上田秋成の『春雨物語』を読んだときのような寄る辺なさを感じたが、徐々にそれが続いていくにつれ、新しい何かを感じさせるものに変わっていった。最近読んだ作品の中でいちばん雰囲気が近いものを探すとすれば、西崎憲氏の『ヘディングはおもに頭で』あたりかも知れない。あるいは昔映画館で観た『コヤニスカッツィ』という映画か。
直接指し示めそうとすれば見えなくなってしまうもの。もしもそんなものを表そうとすれば、その輪郭を囲ってゆくことで、真ん中に残された空虚の形で示すしかないだろう。もしくは視界の影にふと横切らせるしかないだろう。そしてそれが出来るのが文学の力だとすれば、本書はとても力強い「文学」の宣言であるように思える。
はたして何を伝えようとしたのか、とても自分にはきちんと受け止められたとは思えないが、すくなくともそのひとつが「時の流れ」であり「継続」であるのは間違いない気がする。きっとこれからも棘のように、頭の片隅をちくちくと刺激し続けるに違いない。
『猫の客』平出隆 河出文庫
数年間だけ夫婦で暮らした借家を日々訪れてくれた隣家のチビ猫。愛おしい命の交流といくつかの別れを、静謐な美しい文章で綴った、まるで詩のような小説。フランスをはじめとする海外22カ国で翻訳されていて、各国でベストセラーになっているとのことだ。『葉書でドナルド・エヴァンズに』の解説でこの本のことを知り読んでみたのだが、これはいい本だった。この場所に住んでいたのはちょうど『葉書で…』の時期と重なるようで、友人の死やカナダ、ヨーロッパへの旅行のこともちらりと顔を出す。しかし中心にあるのはあくまでも、家での暮らしと四季の移り変わり、そして「客」として訪れる小さな猫との時間であり、それが故に後半の別れと新たな出会いが却って強く心に刻まれる。解説の末次エリザベート氏によれば、フランスではこの小説が一種の「俳句小説」として受け止められているとのこと。そう言われるとたしかに納得できるところはある。自分も最後のページを閉じた後、いつまでも余韻を味わっていた。この本が俳句になり得ているとすれば、それは全身全霊をもってこの世界に存在している猫たちのおかげであるといえるだろう。そしてこの本を読む者は著者と同様、この世に生かされていることを猫によって気付かされるのだ。忘れられない本がまた増えた。
『黒い玉』トーマス・オーウェン 東京創元社
加藤尚宏訳。副題は「十四の不気味な物語」。ベルギーの幻想怪奇作家による同題の短篇集から、恐怖色の強い作品を訳出したもの。(幻想味の強い残り十六篇は同じく東京創元社から出た『青い蛇』に収録されている。)
「恐怖」と書いたが、自分があまり小説で怖いと思ったことが無いせいか、たとえ主人公を凄惨な運命が襲っても、怖さよりは寧ろ切なさを強く感じてしまった。個人的な好みでいえば『青い蛇』の方が上と感じるが、本書も他の作家には無い独特の魅力を持っている。ひとつ10から20ページほどの短い話ばかりなので、さくさくと読めるのもいい。特に気に入ったのを挙げるとすれば「雨の中の娘」「父と娘」「黒い玉」「鼠のカヴァール」あたりだろうか。現実世界に疲れて心がざわざわした時にでも読みたい本だ。
『短歌タイムカプセル』東直子/佐藤弓生/千葉聡・編著 書肆侃侃房
「一千年後に残したいと思う現代短歌を一冊のアンソロジーにまとめよう」というコンセプトで、戦後から2015年までに歌集を発表した人の中から115人を選び、代表作二十首と、さらにそのなかから一首を選んで鑑賞文を附したもの。収録はあいうえお順なので、新旧の歌人が入り交じって出てきておもしろい。
短歌には詳しくないため知らない人が殆どで、ひとりひとり鑑賞しながら自分の好みに合う歌とその作者を控えつつ読んでいたため、予想以上に時間がかかった。
当然ながら良い歌が目白押しなので、いちいち書き出していくとキリがない。そこで以下、特に気に入ったものをいくつかピックアップしてみたい。いやあ、好かった。
〈岡野大嗣〉 もういやだ死にたい そしてほとぼりが冷めたあたりで生き返りたい
〈小島ゆかり〉 なにゆゑに自販機となり夜の街に立つてゐるのか使徒十二人
〈塚本邦雄〉 夢の沖に鶴立ちまよふ ことばとはいのちを思ひ出づるよすが
〈寺山修司〉 マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
〈早川志織〉 指さして子にものの名を言うときはそこにあるものみなうつくしき
〈フラワーしげる〉あなたが月とよんでいるものはここでは少年とよばれている
〈松村由利子〉 チューリップあっけらかんと明るくてごはんを食べるだけの恋ある
『きらめく共和国』アンドレス・バルバ 東京創元社
宇野和美訳。2017年に刊行され、スペインのエラルデ小説賞を受賞した傑作中篇。亜熱帯の町サンクリストバルに突如どこからともなく現れた三十ニ人の子どもたち。かれらは理解不能な言葉で会話し、人を襲い物を盗み、そして死んだ。その顛末を二十二年後に書いた回想記の形をとっていて、最初は何が起こっているのか解らないまま、子どもたちの存在自体がひとつの謎として描かれていく。「謎の提示とその解決」という意味では広義のミステリと呼べなくもないが、そう言ってしまうとJ・G・バラードの『殺す』や『コカイン・ナイト』もミステリということになってしまうのでよろしくないか。(かと言って、あれらの作品は創元SF文庫から出ているといってSFというわけでもないが。)あらかじめ決められた結末に向かって突き進んでいく構成は、なんとなくガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』を連想した。
敢えて分類するなら、いわゆる〈世界文学〉ということになるのだろう。妙な緊迫感に満ちた展開はエリック・マコーマックやスティーヴン・ミルハウザーにも似たことろがあるが、あそこまで冷めてはおらずある種の熱気がある。むしろポルトガルのジョゼ・ルイス ・ペイショットによる『ガルヴェイアスの犬』に近い感動をおぼえた。してみると、これは中南米の魔術的リアリズムへとつながる〈ラテン文学〉に共通する香りなのかも知れない。
さてそれでは毎年恒例の「印象に残った本」を挙げてみたい。なお「新刊」には今年文庫化されたものを含み、「既刊」には新刊で買ったまま積んであったものを含んでいるのであしからず。また文章は以前アップした月の記事の抜粋して一部修正したものです。
<新刊部門> ―今年出版された本―
『十二章のイタリア』内田洋子 創元ライブラリ
著者は通信社を主宰し、四十年余りに亘って日本とイタリアの掛橋となっているジャーナリスト。イタリア語学科の学生だった頃の思い出から、卒業後に単身飛び込んだイタリアの暮らし、そしてこれまでに出会った多くの人々の記憶が交差して熟成し、まさに馥郁たる香りが文章の間からたちのぼってくるようなエッセイとなっている。昔、林望『イギリスはおいしい』や玉村豊男『パリ 旅の雑学ノート』、須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』などを初めて読んだときのことを思い出した。
出版に関わる仕事に携わっているだけに、本に関わる話題が多いのはもちろんだが、本書の魅力はそればかりではない。ひとことで言えば、ここに書かれているのはイタリアの「文化」だ。文化とは美術や建築物のことばかりではない。また、テレビの旅行番組や雑誌の特集記事に載っている流行りの音楽やファッションのことでもない。それは「日々の営み」であると思う。仮に、栄養補給の為の食事や、体力維持のための睡眠や、あるいは仕事のための時間以外のすべてのものが「文化」だとしよう。本書を読めば、筆者が友人たちと過ごした食事や、高速道路を降りて尋ねた村で過ごした時間、ベネツィアのバールで出逢った人々との会話も、すべてがイタリアの「文化」そのものと感じることができる筈だ。それにしても開放的で友好的なイタリアの人たちにとって、食事を通じた交流がいかに大切なことか。開高健ではないが、まさしく「心に通じる道は胃を通る」のである。
どのページを開いても驚いたり哀しんだり笑ったり、心豊かな読書体験を味わえるのだが、とりわけ本書の良さをよくあらわしているのは、ウンベルト・エーコとの邂逅を綴った第十一章「テゼオの船」ではないかと思う。エーコが述べたという次の言葉が象徴的だ。
「本を読まない人は、七十才になればひとつの人生だけを生きたことにのる。その人の人生だ。しかし本を読む人は、五千年を生きる。本を読むと言うことは、不滅の過去と出会うことだからだ」
以前、どこかで聞いた「人がひとり亡くなるということは、図書館ひとつ焼け落ちたのと同じである」という言葉を思い出した。差し詰めイタリアに暮らす人々は、一人ひとりが数千年に亘るヨーロッパ文化源流の歴史を持った図書館であるといえるかも知れない。
『山の人魚と虚ろの王』山尾悠子 国書刊行会
若い妻との新婚旅行へと出た「私」。列車による数日間の二人の旅は、〈夜の宮殿〉への訪問を経て、〈山の人魚団〉なる舞踏集団を主宰していた伯母の葬儀へと続いてゆく……。
断片的な記憶の連なりは暗示に満ちたエピソードに彩られ、読む者もまた「私」と同じように、夢か現実かも判然としないイメージの世界を彷徨うことになる。絵画でいえばレメディオス・バロ、小説で言えばグスタフ・マイリンク『ゴーレム』やレオノーラ・キャリントン『耳らっぱ』などを連想させる。(或いは外函の装丁に使われたルドンのリトグラフ。)いずれ物語の流れというよりは、イマジネーションのひらめきを愉しむ作品かと思う。個人的には著者は『飛ぶ孔雀』のあたりから、さらに凄みを増したように感じている。
曖昧さはなく明晰に細部まで書き込まれているにも関わらず、全体を見るとどことなく歪で不安定な構成。見たこともない言葉の繋がりに異化作用を覚えつつ、それでいて懐かしさも感じさせる。物語の背後にしっかりとした虚構の存在を思わせる作風は、幻想からシュールリアリズムの世界へともう一歩踏み込んだと言えるのではないかと、そんな気もする。何度も読み返して味わいたくなる作品だ。
『旱魃世界』J・G・バラード 創元SF文庫
山田和子訳。バラード初期の傑作〈破滅三部作〉の第二作目として1964年にアメリカで出版された『燃える世界』を、1965年にイギリスで出版するにあたり著者自ら全面的に書き直した作品。これまで邦訳されていたのはアメリカ版であり、イギリス版は今回が初お目見えとなる。
帯やあらすじ紹介には「完全版」と謳われているが、自分の印象を一言でいうと"デジタルリマスター版"という感じ。アナログ録音の楽曲がデジタルリマスターで隅々までくっきりした音になってよみがえるように、本書では著者の示そうとするビジョンは、『燃える世界』より細部まで鮮明に、くっきりとピントが合っている。作品としての評価は、もとより一人一人の読者に委ねられるものであるけれども、少なくとも自分にはアメリカ版とはまったく別の(はるかに優れた)作品であると思えた。
ではバラードが本書で示そうとしたビジョンとは何か。それは解説で牧眞司氏が書かれているように、当初からバラードが一貫して追求し続けた「内宇宙(イナー・スペース)」であり、中期の〈テクノロジー三部作〉で明確になっていった「景観(ランドスケープ)」というもの。初期三部作ではそれが破滅的な超自然という極限状態であったのに対して、中期三部作では人工的に作り出された景観(テクノロジカル・ランドスケープ)であるという違いはあるが、景観と精神を一致させたおかしな人間が狂言回しとなって主人公が地獄巡りをする構図は同じ。精神と一体化した景観はときに攻撃的であり拒絶的であるが、ときに穏やかであり受容をも示す。
精神世界と外宇宙が出会う場所、時間と空間と精神が溶け合う場所である内宇宙(本書では「内なる景観(イナー・ランドスケープ)」という表現がされている)に著者が極めて自覚的であるのは、次の言葉からも分かると思う。
「失われた時間の瀬に干上がったイメージだけが残る、遠い宇宙の亡霊たち」「そこでは、未来を構成する要素が、静物画のオブジェクトのように、形も関係性もなく、彼を取り囲んでいるだけだった」
正直なことを言うと『燃える世界』は初期三部作の中では一番評価が低かったのだが、本書を読んで印象が変わった。中期三部作を代表する作品がが『クラッシュ』であるように、初期三部作を代表する作品は本書『旱魃世界』でさえあると思う。
『サラ金の歴史』小島庸平 中公新書
副題は「消費者金融と日本社会」。最初は興味本位と怖いもの見たさで手に取ったのだけれど、読んでみたところ極めて優れた消費経済史になっていた。しかもこれまで聞いたこともないような話が丹念に拾い集められていておもしろい。ネットで高評価なのも頷ける。終章に詳しく書いてあるが、「サラ金」をダーティーな印象で感情的に糾弾するのでなく、敢えて一歩引いたところから眺めることで、マクロな経済環境の中で日本の金融システムが作り出した特殊な業界の姿を客観的に捉えることに成功している。(もちろん、その非人道的な取立ての様子なども、第5章にしっかりと出てくるが、主眼は「なぜそのようなことになったのか」を解き明かすことにある。)
なぜサラ金は借金の返済能力が低く債務不履行のリスクが高い人に積極的に融資を行なったのか。純粋な営利企業であるはずのサラ金が、行政によるセイフティネットの代わりに貧困層への金融を行うという「奇妙な事態」がなぜ起こったのか、そういった疑問が本書を読むことで氷解した。
駅前で配られた大量のティッシュや親しみやすいテレビCMと、一方で「サラ金地獄」による膨大な数の自己破産や自殺者を生み出したことは、ひとつの同じ企業による事業活動の結果なのだ。(そしてなぜそうなったかは全て説明されている。)
本書によれば、個人向けの金融は、かつて「素人高利貸」と呼ばれたものにその起源があるとのこと。2010年に完全施行された改正貸金業規制法によって上限金利が大幅に引き下げられた結果、現在では最大手の武富士が倒産し、アコムとプロミスが銀行の子会社となってしまっており、サラ金という業界はほぼ消滅したように見える。しかし彼らが考え出した数々の「革命的な」金融技術は、形を変えていまでも個人向け融資の世界で受け継がれているのだそうだ。テーマ自体は決して好みのものでは無いのだけれど、非常に知的興奮を誘う良書だった。
『夕暮れの草の冠』(柏書房)
西崎憲氏の編纂によるアンソロジー〈kaze no tanbun〉の最終巻となる第三巻。とても美しい工芸品のような書物だ。創作、随筆などの区別なく、ただ十八の「短文」として収録された文章が、その配列や装丁の妙も合わさったことで、書籍の形をしたひとつの完成体として存在している。もちろん全体としては「創作」の比率が高いのだけれど、それもまた幻想小説やSFや私小説といったジャンルの垣根など無く、ただ、ある一人の作家による「創作」としてそれぞれが屹立しているように思える。
人を襲って食べる恐るべき何物かは、ライオンという名が付けられた瞬間に恐ろしくはあるがただの獣に姿を変えた。ここに収録されている数々の文章は、ライオンと呼ばれるようになる前の「何か」ではないだろうか。もしくは、あるひとつのジャンルとして理解されることを拒絶して、「◯◯ではない」という言葉を列ねることでしか表現し得ない、まるで「否定神学」にも似た「否定小説」とでも呼ぶべきもの。読む者の胆力を試される本なのかも知れない。
このような作品集からどこか一部を切りだすのは野暮かも知れないが、特に個人的に気に入ったものを挙げるとすれば、小山田浩子「コンサートホール」、松永美穂「たうぽ」、日和聡子「白いくつ」、西崎憲「病院島の黒犬。その後」、皆川博子「夕の光」あたりだろうか。いずれも、いわく言い難い分類不能の文章として、空前絶後の試みを締めくくるに相応しいものだった。
『エルサレム』ゴンサロ・M・タヴァレス 河出書房新社
木下眞穂訳。世界中で高い評価を受けるポルトガルの作家の代表作。著者が「悪のメカニズムの解析を試みた」という「王国」四部作の第三作目にあたる作品で、全篇が死と孤独、痛みと暴力に満ち溢れている。そして意識するしないには関係なく、登場する誰もが世界の不合理に苛まれつつ生きながらえている。
題名は旧約聖書の詩篇の一節、迫害を受けて漂泊を続けるユダヤの民が魂の故郷を思って告げたとされる、「エルサレムよ、もしも、わたしがあなたを忘れるなら、わたしの右手はなえるがよい」という言葉から取られているとのこと。ゲオルク・ローゼンベルク精神病院を核とした数奇な運命に翻弄されるミリアやヒンネルク、エルンスト、カース、テオドール達。彼らの届かぬ思いと剥き出しの暴力がぶつかり合うとき、悪とともにひとつの奇跡が現れることになる……。
これはすごい作家を読んでしまった。日本で言えば石川淳に匹敵する強さを持っているかも。言葉では直接指し示せないものを感じさせるのが文学の力だとすれば、本書はまさしく文学そのものという気がする。(それもとびきり残酷で美しい光景の。)ぜひともタヴァレスの他の作品も出版されんことを祈る。
ところで余談だが、本書の訳者である木下眞穂氏はペイショット『ガルヴェイアスの犬』で日本翻訳大賞を受賞された方だった。迂闊にも読み終わってから気が付いたのだが、道理で作品に間違いがないわけだ。あれもとんでもない作品だったものなあ。ポルトガル文学恐るべし。
『小鳥たち』アナ・マリア・マトゥー 東宣出版
宇野和美訳。 2010年にセルバンテス賞を受賞作した、二十世紀スペインを代表する作家のひとりということだが、恥ずかしながらこれまでまったく知らなかった。それもそのはず、これまで邦訳されたのは児童文学ニ作品を除くと単行本一冊しかないらしい。「リリカルで詩的なリアリズムに空想と幻想が美しく混じりあう」とのふれこみに惹かれて読んでみたが、期待にたがわず素晴らしい本だった。
本書は副題に「マトゥーテ短篇選」とあるように、彼女の著作のいくつかから、全部で二十一篇の掌篇を選んだ日本オリジナルの作品集となっている。〈はじめて出逢う世界のおはなし〉シリーズの一冊なのだけれど、正直いって子どもの頃に本書を読んだら、ある種のトラウマになったかも知れない。収録されているのは、そんな風につらくて哀しくて美しくて、そして心に沁みる物語ばかり。誤解を恐れずに言えば、イサク・ディネーセンの作品に近い香りがした。本邦では小川未明の童話に通じる残酷さを持つ。
どれも一読の価値があると思うが、そのなかでも特に気に入ったのを選ぶとすれば「小鳥たち」「メルキオール王」「島」「枯れ枝」「店の者たち」「月」あたりだろうか。とりわけ「島」や「月」で描かれる幻想の美しさは格別だ。
<既刊部門> ―古本・絶版とりまぜて今年自分が読んだ本―
『観念結晶大系』高原英理 書肆侃侃房
読み終えた瞬間、心に浮かんだのは「懐かしい」という言葉だった。50年ほど前ならまさしく「思弁小説(スペキュレイティブ・フィクション)」として読まれたかも知れない。山野浩一の作品のいい部分だけを集めたような観念の純粋さが美しい。第一部「物質の時代」は現代が舞台。どことも知れない世界の絵を描き続ける少年、シュルレアリスムの画家、ブルックナーの音楽に魅せられるピアニストらの消息と、死に彩られた鉱物的で硬く冷たい幻想は、澁澤龍彦『犬狼都市』や川又千秋『幻詩狩り』を連想するような読み心地だ。(もしかすると中原中也「一つのメルヘン」にも近いかも知れない。)鉱物の夢をめぐる、時代も国も超えた人々の運命から、やがて観念の世界がその輪郭を顕してくる過程は実にスリリングだ。
第二部「精神の時代」は打って変わって、『ヴンダーヴェルト』なる幻視の書が紹介される。これは第一部でその存在が示されたものだが、これなどまさに川又千秋『幻詩狩り』に登場する謎の詩篇「時の黄金」を思わせる。
内容はといえば、たむらしげるのイラストのような透明感がありつつ漆黒の闇を持つ、美しくも悲しい世界が描かれる。このあたりは宮澤賢治の詩や童話、ますむらひろしの漫画作品を思い出したりしながら、徐々に加速していく物語から最後まで目が離せなかった。を、愉しく読むことができた。
そして第三部「魂の時代」では再び現代世界が舞台に。「石化症」と呼ばれている謎の疾病を通じて、意識と時間に関する考察と、そしてその背後に潜む純粋思念の世界が徐々にその姿を顕してゆく。ラストはバラード『結晶世界』の行き着く先を描いたらこのようになるのではないかと思えるような、詩的想像力に溢れた美しさだった。
人々の想いなどすべて押し流してしまう冷徹さこそが、優れた幻想小説の必須要因であるとするならば、本書は間違いなくその筆頭に上がってくるだろう。そんな充実した読書時間だった。これは傑作。
(追記:澁澤龍彦をモデルにしたと思しき「紫峰朋彦」という著述家には思わず笑ってしまった。みんなアンビバレントな気持ちを抱えながらも、澁澤の影からは逃れられないのだ。
『ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ』キルメン・ウリベ 白水Uブックス
金子奈美訳。(同じ著者の「ムシェ 小さな英雄の物語』では、見事に第二回日本翻訳大賞を受賞されている方。)バスク語で書かれた文学として、スペイン国民小説賞を受賞した作品。著者が自分の家族や知人の生き様について語るモザイクのような断片が、なんとも心地よい。国書刊行会〈新しいマヤの文学〉を読んだ時にも感じたことだけど、話者の数が少ない言語だからといって、その人たちの生み出す文化がメジャーな言語のそれに比べて見劣りするわけではない。むしろ歴史的な背景と密接な関係を持っていたりして、作品として深みが増している気さえする。
本書はスペイン・バスク地方の都市ビルバオから、ニューヨークへと向かう旅のエピソードを縦軸に、そして漁師だった祖父と一族の思い出を辿るエピソードを横軸として綴られている。しかしはっきりしたストーリーは無いに等しく、著者がその時々に感じたことや、教科書には載らない人々の歴史が途中に挟み込まれ、枝分かれしてはまた合流して、さながら森の中を進む小径のようになっている。もっとも自分が知らないだけで、建築家リカルド・バスティダや画家のアウレリオ・アルテタと言った名前は、聞く人が聞けばすぐわかるのかも知れないが。
小説なのかエッセイなのかドキュメンタリーなのかよく分からないうえ、訳者あとがきにもあるように、現実と虚構のあいだをわざと曖昧にしてあるため、次にどこへ連れて行かれるのか予想もつかない。(まあ面白ければそんな区別なんてどうでもいいんだけれど。)それもそのはず、なんと本書は、『ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ』という小説をキルメン・ウリベという作家が書くまでを綴った小説なのだ。入子構造になった物語は万華鏡のように章が変わるたび違った光景を見せてくれるし、所々に差し込まれた詩や歌詞が色を添えてくれる。そして誠実な著者の探索と逍遙に付き合って愉しんでいるうち、やがて見えてくるのは、内戦やその後のフランコ独裁政権に翻弄されたバスクの人々の等身大の姿。そして最終ページを読み終わって本を閉じた時に思ったのは、「個を通じて普遍へと至る道」はまさしく本書においても健在ということだった。細かなエピソードの積み重ねの中に、一瞬の啓示が感じられる時がままあるが、それが何なのかは、おぼろげでよく分からない。しかしそれが日々の暮らしであり、人々の生きた証なのかも知れない。良い物語だと思う。
蛇足だが、20章 「ボストン」には、ハーヴァード大学の自然史博物館にある植物のガラス標本の話が出てくる。およそ50年かけて精密な植物標本を(なんと!)ガラス細工で作り上げたブラシュカ親子についてのエピソードで、知らなかったので検索してみたら本当に凄いものだった。本書にはこういう愉しみ方もある。
『百年と一日』柴崎友香 筑摩書房
27の独立した短い物語に、〈娘の話〉及び〈ファミリーツリー〉という、断続的に続く2つの物語を加え、ぜんぶで29の話が収録されている短文集。例えばひとつ目の物語は「一年一組一番と二組一番は、長雨の夏に渡り廊下のそばの植え込みできのこを発見し、卒業式して二年後に再会したあと、十年経って、二十年経って、まだ会えていない話」と名付けられている。そして内容は、まさにその通りである。
また、こんな物語もある。「二階の窓から土手が眺められた川は台風の影響で増水して決壊しそうになったが、その家ができたころにはあたりには田畑しかなく、もっと昔のには人間も来なかった」―― まさにこの通りだ。
なんだろう、普段読んでいるような、というか、一般的に想像する「物語」のルールとは違う組み立てをされている感じ、とでもいえば良いだろうか。決して詰まらないとか読みにくいということはないが、ただいつもの調子で読んでいると、自分の足元が不意に消えてしまうような感覚を覚える。初めのうちは、上田秋成の『春雨物語』を読んだときのような寄る辺なさを感じたが、徐々にそれが続いていくにつれ、新しい何かを感じさせるものに変わっていった。最近読んだ作品の中でいちばん雰囲気が近いものを探すとすれば、西崎憲氏の『ヘディングはおもに頭で』あたりかも知れない。あるいは昔映画館で観た『コヤニスカッツィ』という映画か。
直接指し示めそうとすれば見えなくなってしまうもの。もしもそんなものを表そうとすれば、その輪郭を囲ってゆくことで、真ん中に残された空虚の形で示すしかないだろう。もしくは視界の影にふと横切らせるしかないだろう。そしてそれが出来るのが文学の力だとすれば、本書はとても力強い「文学」の宣言であるように思える。
はたして何を伝えようとしたのか、とても自分にはきちんと受け止められたとは思えないが、すくなくともそのひとつが「時の流れ」であり「継続」であるのは間違いない気がする。きっとこれからも棘のように、頭の片隅をちくちくと刺激し続けるに違いない。
『猫の客』平出隆 河出文庫
数年間だけ夫婦で暮らした借家を日々訪れてくれた隣家のチビ猫。愛おしい命の交流といくつかの別れを、静謐な美しい文章で綴った、まるで詩のような小説。フランスをはじめとする海外22カ国で翻訳されていて、各国でベストセラーになっているとのことだ。『葉書でドナルド・エヴァンズに』の解説でこの本のことを知り読んでみたのだが、これはいい本だった。この場所に住んでいたのはちょうど『葉書で…』の時期と重なるようで、友人の死やカナダ、ヨーロッパへの旅行のこともちらりと顔を出す。しかし中心にあるのはあくまでも、家での暮らしと四季の移り変わり、そして「客」として訪れる小さな猫との時間であり、それが故に後半の別れと新たな出会いが却って強く心に刻まれる。解説の末次エリザベート氏によれば、フランスではこの小説が一種の「俳句小説」として受け止められているとのこと。そう言われるとたしかに納得できるところはある。自分も最後のページを閉じた後、いつまでも余韻を味わっていた。この本が俳句になり得ているとすれば、それは全身全霊をもってこの世界に存在している猫たちのおかげであるといえるだろう。そしてこの本を読む者は著者と同様、この世に生かされていることを猫によって気付かされるのだ。忘れられない本がまた増えた。
『黒い玉』トーマス・オーウェン 東京創元社
加藤尚宏訳。副題は「十四の不気味な物語」。ベルギーの幻想怪奇作家による同題の短篇集から、恐怖色の強い作品を訳出したもの。(幻想味の強い残り十六篇は同じく東京創元社から出た『青い蛇』に収録されている。)
「恐怖」と書いたが、自分があまり小説で怖いと思ったことが無いせいか、たとえ主人公を凄惨な運命が襲っても、怖さよりは寧ろ切なさを強く感じてしまった。個人的な好みでいえば『青い蛇』の方が上と感じるが、本書も他の作家には無い独特の魅力を持っている。ひとつ10から20ページほどの短い話ばかりなので、さくさくと読めるのもいい。特に気に入ったのを挙げるとすれば「雨の中の娘」「父と娘」「黒い玉」「鼠のカヴァール」あたりだろうか。現実世界に疲れて心がざわざわした時にでも読みたい本だ。
『短歌タイムカプセル』東直子/佐藤弓生/千葉聡・編著 書肆侃侃房
「一千年後に残したいと思う現代短歌を一冊のアンソロジーにまとめよう」というコンセプトで、戦後から2015年までに歌集を発表した人の中から115人を選び、代表作二十首と、さらにそのなかから一首を選んで鑑賞文を附したもの。収録はあいうえお順なので、新旧の歌人が入り交じって出てきておもしろい。
短歌には詳しくないため知らない人が殆どで、ひとりひとり鑑賞しながら自分の好みに合う歌とその作者を控えつつ読んでいたため、予想以上に時間がかかった。
当然ながら良い歌が目白押しなので、いちいち書き出していくとキリがない。そこで以下、特に気に入ったものをいくつかピックアップしてみたい。いやあ、好かった。
〈岡野大嗣〉 もういやだ死にたい そしてほとぼりが冷めたあたりで生き返りたい
〈小島ゆかり〉 なにゆゑに自販機となり夜の街に立つてゐるのか使徒十二人
〈塚本邦雄〉 夢の沖に鶴立ちまよふ ことばとはいのちを思ひ出づるよすが
〈寺山修司〉 マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
〈早川志織〉 指さして子にものの名を言うときはそこにあるものみなうつくしき
〈フラワーしげる〉あなたが月とよんでいるものはここでは少年とよばれている
〈松村由利子〉 チューリップあっけらかんと明るくてごはんを食べるだけの恋ある
『きらめく共和国』アンドレス・バルバ 東京創元社
宇野和美訳。2017年に刊行され、スペインのエラルデ小説賞を受賞した傑作中篇。亜熱帯の町サンクリストバルに突如どこからともなく現れた三十ニ人の子どもたち。かれらは理解不能な言葉で会話し、人を襲い物を盗み、そして死んだ。その顛末を二十二年後に書いた回想記の形をとっていて、最初は何が起こっているのか解らないまま、子どもたちの存在自体がひとつの謎として描かれていく。「謎の提示とその解決」という意味では広義のミステリと呼べなくもないが、そう言ってしまうとJ・G・バラードの『殺す』や『コカイン・ナイト』もミステリということになってしまうのでよろしくないか。(かと言って、あれらの作品は創元SF文庫から出ているといってSFというわけでもないが。)あらかじめ決められた結末に向かって突き進んでいく構成は、なんとなくガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』を連想した。
敢えて分類するなら、いわゆる〈世界文学〉ということになるのだろう。妙な緊迫感に満ちた展開はエリック・マコーマックやスティーヴン・ミルハウザーにも似たことろがあるが、あそこまで冷めてはおらずある種の熱気がある。むしろポルトガルのジョゼ・ルイス ・ペイショットによる『ガルヴェイアスの犬』に近い感動をおぼえた。してみると、これは中南米の魔術的リアリズムへとつながる〈ラテン文学〉に共通する香りなのかも知れない。
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